Thursday, December 28, 2006

東西の子育て (2006/12/28)

イノさんのエッセーを拝見しておりますと、今の日本では、子育ては難しい課題のようですね。

青少年が比較的問題なく成長するのは戦時中だと社会学者は指摘するそうですが、一方で不景気になると若い者の礼儀が向上するとも聞いています。 若い人達も変化する社会に敏感に対応するのですね。 その論理を逆にすれば、平和が爛熟する時代にあっては、青少年に規律や礼節を期待する方が無理なのかもしれません。 行儀作法は親の躾家庭の躾が大事なのでしょうが、信仰に篤い母親が家庭に残って子供の成長を見届けている場合、成功の確率は洋の東西を問わず高いようですね。 

修身を教室で教えれば家庭の躾の代わりになるでしょうか。 私の知り合いでコンモンセンス豊かなクリスチャンがいるのですが、そういう人でも「カナダこのごろ」で教育勅語や修身教育を取り上げるのには反撥して、読むのをやめてしまいました。 30代の日本人ですが、世代の違いでしょうか。 新しい酒は新しい皮袋にと言いますが、現代は新しい倫理の教えが求められているのかもしれません。 教育勅語も明治官僚が天皇の名のもとに起草したもの。 昭和生まれの平成育ちには、万古不易の真理とは受け入れ難いののようです。 

子育てというとすぐ思い出すのが、味の素の鈴木兄弟ですが、長男の鈴木三千代氏を始め、東大教授、昭和電工社長と綺羅星の如く英才を輩出しているのは、先代に何か子育ての秘密でもあったのでしょうか。 ほかに伊藤道郎、伊藤喜策、千田是也の三兄弟。 尾高朝雄、尾高日尚忠の兄弟。 一高教授、大使、侍従長として業績のあった三谷兄弟。 現代では鳩山一家。 修身復活も結構ですが、そういう実例をケーススタディにして、ノウハウを探ってみては如何なものでしょうか。 

それに昭和天皇の兄弟について、白樺派の作家長与善郎が 「民間でもあれほど出来のいい兄弟が揃っているのは珍しい」と書いていました。 長与は兄も東大総長、犬養家とも縁戚にある家柄。 皇室にも近かったのでしょう。 戦後昭和天皇が国民の前に立たれソフトを掴み 「アッそう」と言われるのを笑った日本人もいた中で、天皇を「英邁」と評したのは異例のことだったと思います。 詩人の三好達治は幼年学校で同級だった秩父宮が 「フランス語は抜群だった」と記憶。 私の友人の父親は海兵で高松宮と同期。「高松宮は出来よったもんなあ」と感嘆の声を発していました。 これは余談ですが、三笠宮が戦後青山学院で教えておられた時食堂のテーブルで一緒になったアメリカ人女性に「アイアムプリンスミカサ」と自己紹介されたところその女性「アイアムクレオパトラ」と言ったと同僚の米人教師から聞きました。 三笠宮もアカデミックの世界では一流だったのでしょう。

マークトウェインは無神論者だったそうですが、悪童トムソーヤには日曜学校に行かせています。 現代のアメリカの教育に修身があるのかどうか無知なのですが、団塊の世代には無宗教の人が多いそうです。 それでも子供達は日曜学校に通わせているそうですから、どういう動機からでしょうか。

アメリカで有名な家族というと、ケネディ一家ですが、4人の男の子はいずれもハーバードに学び、一旦緩急あれば進んで戦場に赴いています。 長男は戦死。 次男は重傷。 三男は水兵。 四男は戦後ドイツで兵役に。

しかしロックフェラー家も富よりも人的貢献で知られています。 初代のジョンDロックフェラーは父親が失踪し信心深い母親に育てられ、二世のジュニアーはこれまた人格卓越の独り息子。 この人の息子5人がいずれも俊秀揃い。 二世の子育てが実を結んだのでしょう。 その英才教育については、本やTVで多く紹介されていると思いますが、文化や環境は異なっても、日本人の子育てにも参考になることと思います。 四世も若くして京都に学び、後に知事、上院議員。 現在上院の良心的象徴として認められています。 

これと対照的なのがイギリスの王室。 現代の日本の皇室はどうなのでしょうか。 ある人は 「日本の皇室はエンターテイナーではない」と外人に説明したそうですが、「なるほど、たしかに」と思ったことでした。 (06/12/28)

Monday, December 25, 2006

日本の軍隊 (2006/12/25)

「硫黄島論議に関連して」

硫黄島に何万の日本軍将兵がいたのか知らないのですが,二万人以上いたのでしょうか。 日本は精鋭部隊を送り込んだわけではなく、主体は志願の少年兵と赤紙一枚で狩り出された中年の補充兵だったと聞くと、大本営は初めから硫黄島を人柱にして見殺しにするつもりだったのですね。

それでも生き残って米軍に投降した将兵が千人以上いたと聞いて意外でした。 しかもこうした生存者は、洞窟で、戦友の屍骸を積重ねて防禦壁とし、火焔放射器から身を守ったのでしょう。 まさに地獄絵です。 半死半生の状態で米軍に救出されたのでしょうが、今は元気な姿をテレビに現しているところをみると、人間の身体の不思議な生命力に教えられます。 当時の補充兵はもう生存していないと思いますが、少年兵ならまだ70代で真実を胸に秘めていることでしょう。 

東条英機の「戦陣訓」は私も子供の頃レコードで聴きました。 「生きて虜囚の辱めを受くることなかれ」というかん高い声も覚えています。 そのご本人も、ミッドウェー海戦の辺りで自決していれば、東條神社ぐらい建立されたでしょうに、戦後まで生き残って、いよいよ米軍が逮捕にやってきたのを自宅の二階の窓から見ていて、初めて拳銃を取り出し、左手で左胸に発砲。 それが心臓を外れて、戦争裁判の席に立つことになったのですから、戦陣訓とは何だったのかと思います。 

そして「上官の命令は朕の命令と思え」と天皇の名をかたって星数の多い連中が兵卒に対する残忍な嗜虐行為を加えたことを正当化したのですから、嗚呼無情。 もっともそうした上官自身もかつては同じ残酷な扱いを受けてきて、それを次の階級に繰り返したのでしょうが。

私の父も終戦直前に召集され、北支に派遣されたのですが、二等兵の短剣の鞘は竹製でした。 軍靴はズックだったでしょうか。 復員してきた時、前歯があらかた無くなっていました。 若い上等兵や下士官に殴られたのでしょうが、どうしたのかと訊く勇気は中学生の息子にはありませんでした。 父も「敵弾に当たった方がましだと思った」とだけひと言洩らしました。 そのぐらい下級の日本兵は上官のビンタに、敵からの攻撃以上に、痛めつけられていたのでしょう。 前にも申し上げましたが、映画「硫黄島の砂」で侵攻の直前、ジョン・ウェインの軍曹が兵士を殴っていると、通りかかった上官が 「下士官が兵を殴るとは軍法会議ものだ」とたしなめるシーンがあり、その科白に驚きました。 

日露戦争の際の日本軍の行動は騎士道的であったと海外でも賞賛されたようですが、どうして同じ日本軍が、支那事変、大東亜戦争と、性格を変えていったのでしょう。 

軍歌に「恩賜の煙草をいただいて/明日は死ぬぞときめた夜は/荒野の風もなまぐさく/ぐっと睨んだ星空に/星がまたたく二つ三つ」というのがあります。 メロディは長調ですが、寂寥感が迫ってきます。 歌詞は間違っているかもしれませんが、私には忘れられない歌です。 零細農家の母親に育てられた息子が戦場で最後の煙草を胸いっぱい吸う。そして次に母親の手許に届くのは戦死の公報。 それが日本の多くの母親達のパターンではなかったかと思います。 何が東洋平和のため、大東亜共栄圏の大義のためだったのか。 しかしそういう疑問は許されなかったのです。

あの狂気の時代が過去のものとなった今の日本は幸せです。 しかし世界にはまだまだその狂気が大手を振ってまかり通っています。 カナダもアフガニスタンに出兵して多大の犠牲を出していますが、もはや平和を維持するためではなく、攻撃的性格の強い侵攻軍に変化しています。 アメリカと隣りあわせの国に住みながら、私にはどの道が正しいのか、その答がつかめないのです。    
(06/12/25)

Sunday, December 24, 2006

病室の一隅で (2006/12/24)

「年の瀬も迫ってきたが、人生の終りもすぐそこの角までやってきているような気がする」

「私も75だが、気力体力は四捨五入して80じゃないかな。 もっとも80になってみないと本当のところは判らないが。 実は昨日心臓の専門医の所へ行ったんだが、カルテを見て、『今年はハードイヤーだったね』と言われた」

「というと心臓でも悪いの?」

「いや、6ヶ月に一回心臓を診てもらっているんだが、血圧も血糖も上々だと言うんだ。 ただ8月と11月に二度入院したからね。 ファミリードクターには毎月健康診断をして貰っているんだが、血液検査も定期的にやっているので、健康はまあまあだ。 ただ時々身長をはかるのだが、年取って段々縮むからだろうね」

「ちょっとした人間ドックだね。 費用は?」

「勿論タダだ。 もっとも税金でまかなわれているから、多額納税者におんぶかな」

「それで差額のベッド代は?」

「そんなものは無かったな。 今までに個室に入ったこともあるけど、やはり無料だった。 州や病院によっては違うのかもしれないが」

「病室は4人部屋か」

「そうだ。 200人ぐらい入る病院だが、意外なことに男女同室。 つまりCOED だったのには驚いた。 ベッドは一応カーテンで仕切ってあるけど、声は筒抜け。 向かいにいたのは私と同じくらいのおじさんだが、枕許の電話が鳴ると、吠えるような声で、「大きな声を出すな」とまず一喝。 そしておもむろに「誰?」とのたもう。 大学の先生らしくて、点滴について、看護師に講釈し注文をつけるんだ。 忙しい看護師達には迷惑だったかもしれない。 あまり見舞い客もなかったな」

「女の人というのは?」

「うん、隣のベッドに80代の全盲の婦人がいた。 いつもラジオのクラシック音楽を聴いていた。 5年前に失明したと言っていたから、マーキュラー・ディジェネレーションかもしれない。 年寄りには多いからね。 そのご婦人、一人で食事も出来ないんだ。 しかし性質が可愛いんだろう。 よく非番の看護師が話しにやってきていた。 クラシック音楽には、気難しいお向かいの先生も喜んでいた。 斜向かいにいた若い女性は麻薬中毒じゃないかな。 酸素吸入をしていたから肺炎かもしれない。 それでも注文をつけるのは一人前。 「ミルクが生ぬるい」とか「冷たい」とか文句を言っていた。 それでいて「サンキュー」と言う言葉は聞こえなかったなあ。 物を頼む時は「プリーズ」と言った方がいいと思うけど」

「ドイツを旅行した友達が、「ダンケ」と「ビッテ」だけで用が足りたと言っていたが、「メルシ」と「シルブプレ」もそうだろうね。 それで治療の方は?」

「私の場合は胃潰瘍だったんだが、輸血に点滴。 それに私に胃カメラをのませた中国系の専門医が2人の若い医者を連れて診にくるんだ。 その外にやはり中国系の女医が担当医としてやはり2人のお付きと共にやってきた。 そのお付きの若先生達は、いずれも彫りの深い浅黒い顔だったなあ。 それに香港系の女性インターンと白人女性のインターン。 この白人の女医さんというのが珍しいくらい親切で上品だった。 一日に3回、丹念に全身を聴診器と触診で診てくれるんだ。 この8人の先生達がチームになって私の病状をディスカスするらしい。 そういうわけでインターンも観音様というか、こちらの人ならエンジェルと呼ぶんだろうな。 幼児の頃から日曜学校で愛の精神を教え込まれているからかな。 白人だから優しいというのではなくて、たまたま優しい人が白人だったということだが、看護師も心をくばってくれるのは白人が多かったなあ。 夜は東南アジア系の若い人だった。 恐らく昼間の白人は経験が長く、シニオリティがあるのかもしれない」

「食事はどうだった?」

「うん、入れ物は大きいんだけれども、胃潰瘍にはジュースばかりなんだ。 それも市販のプラスチックのカップにアルミ箔をかぶせたのをね。 みんな患者によって一人一人献立が違う。 しかし後で聞いたんだが、病院も経費節約でね、キッチンは民間に委託なんだそうだ。 病院がキッチンを直営すると、時給17ドル払わなければならない。 それが民間に丸投げだと、時給9ドルですむんだそうだ。 それに料理もインスタントのアルミ箔の袋を鋏でジョキジョキ切ってそれを出すのだから、シザーズ(鋏)料理とでも言ったらいいのかな。 ジュースばっかりだったからおかげで痩せたよ」

「東京にいる友達が、奥さんの入院費に毎月50万円かかったと言っていたが、大阪で行き倒れになった友人は、保険の上に毎日1万円ずつ払わされたというし、またボストンで眩暈をおこした知人は、病院の費用が一日1万8千ドルだったと聞くと、君の場合は安上がりだったね」

「1セントも1ペニーも払わなかったんだから。 それにカナダの救急病院もERイマージェンシーで長時間待たされると評判が悪いが、私の場合朝6時だったが医者が即時に立ち会ってくれた。 病状によって待たされる時間も違うのだろうが、今回は幸運だった」 

(06/12/24)

Thursday, December 14, 2006

日系人のことども (2006/12/14)

イノさんへ 

先日、「戦時中、日系人の私有財産は没収されなかったのか」というご質問をいただきましたが、厳密には「没収」とは言えなくても、事実上は没収に近い形で財産を失ったという話を聞いています。 

1941年12月太平洋戦争が勃発して間もなく、バンクーバーにいた日系人2万人は、博覧会場にあった家畜共進会の厩舎に集められ、それから鉄道で奥地に送りこまれたのでした。 そこは人里離れた原野や廃鉱になったゴーストタウンでしたが、当時カナダ連邦警察は移動に反対したものの、反日的な政治家の意思によって強制移動が行われたものです。

そして私有財産の家や漁船は、持主には断り無く、政府によって二束三文で競売に付され、その名目的な僅かな売却代金を収容所にいる日系人に押し付け、事足れりとしたようです。 敵国民扱いの日系人の中には、第一次大戦にカナダ軍兵士として参戦した元将兵もいたのですが、抗議することも許されず泣き寝入りをせざるを得なかったのでしょう。

収容所に移された時、幼児だったかまだ生まれていなかった三世や四世は、戦後だいぶ経って、自分達の親が受けた仕打ちに憤慨し、補償請求の運動を起こしました。 こうした運動はカナダに限らず、世界各地の民主主義社会でも共通してみられることかもしれません。 第二次大戦中日本軍の捕虜となった英米オランダ軍の兵士達は、戦争が終わるとその大半が日本を許す気持になったようですが、その捕虜の家族や友達は日本人に対する憎悪を燃やし続けました。 戦後30年近く経ってから天皇がヨーロッパを旅されましたが、その時敵意に満ちた行動が各地でみられました。 北アイルランドの紛争も、源を辿れば数百年昔の故事に遡るのですが、スコットランド系のプロテスタントとアイルランド系のカトリックは昔日の争いを今も忘れずお互いに憎しみを煽っているのもそのたぐいでしょう。 実際に自分達が体験したことのない先祖の恨みを痛切に覚えて、子孫が長く憤怒するのはこれからも果てしなく続くことでしょう。

ですから、戦時中幼児だった作家のジョイコガワさんが、偏見と差別に苦しんだ両親の世代の物語を詩のような麗筆によって描くと、洛陽の紙価を高めることになりました。 その作品を読んだ他の多くのカナダ人も紅涙をしぼって日系人のために同情してくれたようです。

その効果もあったのでしょう。 戦後半世紀近く経って、時の進歩保守党政府が日系人に対して議会で正式に謝罪を行い補償に応じました。 あれは1990年に掛かる頃だったでしょうか。 カナダより一足先に、アメリカで日系人に対する補償が行われたために、カナダでも遅まきながら、そのパターンを追ったのでしょう。 もしアメリカの先例がなかったらどうなっていたかわかりません。 補償の額は、アメリカよりは少ないものでしたが、それでも日系人にとってはこれで一応のケジメがついて胸のつかえがおり、結構でした。

三世四世の中には、コガワさんのほかに活動家もいて、日本から戦後移住した新移民の中の有志も加え、自分達が直接苦しい目にあったわけではないが、親達の苦労を偲んで、政界と世論に訴えました。

しかし、私が直接会った一世二世のお年寄り達によると、別な受け止め方もありました。 その一世二世からは聞いた言葉は次のようなものです。

「戦前の日本人いうと、古着のオーバーを着て、それも袖や裾をつまんで直せばいいのに、ダブダブのままルンペンのような薄汚ない恰好で、あれじゃあ嫌われるのも当然ですよ」 
「収容所いうても、ちゃんと生活は保証されとるんでしょ。 戦前は仕事がなくって失業しとった人達も、収容所では暮らしの心配もなし。 日本の皆さんは、戦争で苦労されとったでしょうに、私達はまるでホリデーでしたよ。 盆踊りや野球大会なんかもよく行われて、それは楽しいこともよけいありました」
「それが最近(1990年近くになって)三世四世の若い人達が立ち上がった。 わしらそんな気持はないんやけど、その人達の権幕がすごいのよ。 それでわしら何にも言えんかったんよ」
「そりゃあ、戦前のBCでは、日本人に対する偏見と差別がありましたよ。 今思い出しても、バンクーバーには帰りたくありませんね。 しかし戦時中こちら(ケベック)に来たら、そりゃあ人が親切。 実によくしてくれました。 今ケベックが独立するかもしれんという動きがあるが、あの戦時中のことを考えると、たとえ独立しても、ケベックを去って西部に帰る気にはなれませんよ」

これはCBCで放送された話ですが、まだ戦争が始まる前、日本から移住していたタグチさんという家族がありました。 タグチさんはクリスチャンで、戦時中の扱いにもひと言の不満をもらさず、絶えず感謝の思いで満たされていたそうです。 その子息であるヨシ・タグチ博士は、3才の時に移住してきて、今73才。 収容所で育ったのですが、今のモントリオールで高名な存在。 街を歩くと絶えず市民が挨拶するそうです。 毎日3件の前立腺の手術を行い、60人の患者を診察。その上でマッギル大学で医学部や医局員の指導を行い、かたわらキリスト教や禅について数多くの著作を英語とフランス語で上梓。 タグチ先生に診てもらう患者は「自分だけがタグチ先生の患者。 先生は自分の親友」と思い込んでいるのだそうです。 収容所からこんな素晴しい日系人も生まれたのですね。

カナダの日系作家はコガワさんのほかにもいますが、もうボツボツ戦時中の亡霊から卒業して、人類の普遍的な情感を感動的にうたいあげる、イギリスのイシグロカズオのように芸術的香り高い作品を著わす作家が生まれてもいい時機だと期待しているのですが。 

(06/12/14)

Saturday, December 09, 2006

ケベック今昔 (2006/12/08)

「イノさんへのご返事」

ご指摘のように、ケベックから3人の自由党党首が続き、その前のトルドーもケベックの出身、それにマッケンジー・キングの21年の長期政権をいれると、近代カナダでは自由党の神権政治がまかり通っているような印象が残ります。

その合間合間に保守系政権党が顔を出すのですが、マウルーニー進歩保守政党政府の10年は例外でした。 しかしマウルーニーとキム・キャンベルの進歩保守政権は苦いスキャンダル的な後味を残して消えました。

日系人と自由党との関係はどうでしょうか。 日系人に迫害を加えたのは自由党のキング首相とBC州の政治家でした。 キングは首相になる前からキャリア官僚として日系人に不信感を抱き排日の政策をとっていました。 そして太平洋戦争が終わっても、アメリカは即座に日系人をカリフォルニアなどの西海岸へ帰したのに、カナダ政府は、1949年まで日系人の西海岸への帰還を許しませんでした。  

前にもお伝えしたように、キングは広島の原爆投下を知って、「ヨーロッパ人の上に落ちなくてよかった」と日記に書いています。 生涯独身で、死んだ母親と霊媒を通じて交流し、国政についても相談していたそうですが、そういう人物がカナダの権力のトップに坐っていたのです。 

戦後45年経って、マウルーニー首相の進歩保守党政府は、日系人に対して謝罪しました。 アメリカのレーガン政権程の金額ではなかったのですが、アメリカにならってカナダ政府も日系人に補償金を出しました。 進歩保守内閣の中には、日系人に対する補償に反対した閣僚もいましたが、それは東欧から移住してきた、元フィギュアスケート選手でした。

中国人も、戦前から、人種偏見に基づく差別を長い間受けていたのですが、今年になって、ハーパー首相も、正式に謝罪しました。

かなり前になりますが、マニトバで、日系人の大学教授が、自由党から選挙に出馬したことがありました。 その時日系社会はソッポを向いたようで、誰も応援しなかったようです。

現在の保守党内閣では、ベブ・オダという日系女性が入閣しており、ヘリテージ大臣として文化行政を担当しています。

ディオンは、ケベックでどう受け止められているかというご質問ですが、実はディオンを誰よりも憎んでいるのは、ほかならぬ一部のケベック人なのです。 何しろ、ディオンは、ケベック独立に反対する統一カナダ陣営のチャンピオンです。 十代の少年時代には、独立論に傾いていたこともあったようですが、ムッソリーニが言ったように、「若い時に共産主義に傾かないのはバカだ。 そして年を取ってからも共産主義にしがみついているのもバカだ」いう言葉を思い出します。  誰でも若い頃は独立ケベックの理想に一度は燃えるのでしょう。 しかしディオンもその後研鑽を重ねヨーロッパから祖国を客観的に見て、統一カナダが正しいという考えに固まっていったのでしょう。

ですからディオンを嫌っているのは、ケベックの若い一部の独立主義者だろうと考えます。 彼らからみれば、ディオンは裏切り者の叛逆者なのかもしれませんね。 

しかしケベックでも、年齢的に熟してきて、政治感覚にも幅がでてくると、フランス語系市民でも、ディオンに同調する向きも増えるのでしょう。 その数は今のところ若手の独立主義者を上回っているようです。 それにいくらケベック独立に反対だといっても、ディオンは正真正銘のケベックの申し子なんですから、分別あるケベック人ならディオンを後押しするのが自然ではないかと思います。

政治家にカリスマが求められ評価されたのは過去のこと。 トルドーマニアを巻き起こしたカリスマ旋風は40年前でした。 イノさんの言われるように、今は訥々とした話し方に誠実さが認められる時代が来ているのでしょう。 

しかも、独立を標榜する政党のパルティ・ケベコアの党首は自他ともに認めるゲイ。 幾らケベックが開いた社会とはいえ、年輩のケベック人が若いゲイのリーダーシップを受け入れるほど受容性に富んでいるでしょうか。 連邦議会にあって独立を目指すブロック・ケベコアの党勢も、今は衰え気味のようにみえます。

(06/12/08)

Tuesday, December 05, 2006

自由党の党首にS.ディオン (2006/12/05)

「党首不在が長かった自由党だが、9ヶ月かかってようやく選出したね」

「自由党は万年与党、万年政府党と言われているから、今保守党に預けてある政権も返してもらう日も近いだろう。 そうすると、新党首のディオンさんは、首相のポストに最短距離にあるわけだ」

「それにしても、選挙の経過はドラマチックだったね。 ディオンさんは、出馬の段階では4位。 17%の票しか取れなかったのに、次の選挙では、2票の差で3位に。 この時涙を呑んだケネディ候補が、自分のグループの票をディオン候補に振り向けたのがドラマの山だった。 そして本命とみられていたイグナチエフ教授を逆転で破って、55%を獲得、首位に躍り出た。 5千人の代議員の潮が、僅か半日のうちに大きく転換したんだね」

「これで、3人連続して、ケベックから党首を出したことになる。 3人もケベック出身が続くということは、当初マイナス要因とされていた。 それにディオンさんは英語がペラペラではない。 まるで昨日ヨーロッパから移民してきたばかりの人のように、タドタドしく話す」

「でも、カナダ生まれのカナダ人だろう? たとえフランス語が母国語とはいえ。 それに大学で教えていた知性派だ」

「その訥弁が、誠実そうな人相とあいまって、信用のおける人だという印象を与えたのかな。 英語圏カナダ人の受けも、けっして悪くない。 好意的で、まずは蜜月ムードだ」

「最初は、英語が不自由ということが重大なハンディキャップイとされて、同僚の議員達も党の領袖も見放していたのだが、5千人が一堂に会して醸し出すダイナミックな心理のうねりが、意外も意外というどんでん返しになったなあ」

「ケベック市で51年前に生まれ、同市のラバル大学で政治学を専攻した。 その後パリで社会学の博士号を取って、モントリオールやパリで教えたが、ワシントンのシンクタンクの仕事もしていたようだ。 父親は憲法学者。 奥さんもミリタリーカレッジで教える学究一家だ」

「それに顔つきがいい。 いわゆる政治家の擦れた感じがなく、正直で信念の人という評判だ。 今でも、ブリーフケースでなく、ルックサックをかついで動き回っているそうじゃないか」

「ただ母親がフランス人だから、生まれた時から加仏の二重国籍だ。 今の総督だって、結婚してフランス国籍を取得していたのが問題になったからなあ」

「議員としては10年の経歴だが、クレチアン首相に登用されて閣僚となり、クレチアンの政敵だったマーティン首相にも見込まれて環境相となった。 愛犬の名前が「京都」ときけば、環境問題に対する打ち込みが感じられて嬉しいね」

「まだ党首になって3日目。 これから我々もステファン・ディオンについてもっともっと知ることになるだろう」

(06/12/05)