Saturday, September 30, 2006

ある看護風景 (2006/09/28)

イノさんへ

日本の看護師の働く環境が、大都市や大病院にかたよっているため、地方や中小病院にしわ寄せが来て、その結果、医療事故につながる可能性が高いということ。 由々しいことです。 

私が最近経験した入院で気がついたのは、日中の日帰り手術を施すデーサージェリーでは、全員白人の中年女性でした。 しかしイマージェンシーの病棟に移ると、昼夜3交替で世話してくれる看護師は、白人が一人も居らず、全員ノン・ホワイトの看護師だったことでした。

ある朝、夜明けに、私はヒタイをピタピタ叩かれて目が覚めたのですが、暗闇の中で目に入ったのは、小さな山ほどの量感のある黒人看護師でした。 無言で熱をはかり、血圧と血糖をチェックし、薬を投与してくれたのですが、早朝だったので病室には灯りはついておらず、暗い所でその人の動きをみながら、「この女性も3年間看護学の勉強をして、このバンクーバーゼネラルホスピタルで働いているのだが、カナダの学校に通っている間、その縦も横も同じサイズの身体で、よく教室の椅子と机に坐れたものだ」と失礼ながら意外の念に打たれたことでした。

私は3晩4日その病棟にいたのですが、先ほども申しましたように、一人の白人看護師も見かけませんでした。 病室で横たわっている患者の大部分は白人の患者だったのですが。 看護師で一番多かったのがフィリピン系。 男も女もキビキビ動いていました。 ほかにインド系、中東系、その他のアジア系が面倒をみてくれましたが、面白いと思ったのは、そのアジア系の小柄な女性看護師が、私の隣のベッドにいた白人の大学教授の婦人に、命令形の言い回しで半ば叱り付けるような話し方をしていたことです。 

命令形というのは、動詞を一番最初にもってきて「なになにしなさい」という表現になりますが、普通の会話なら「していただけませんでしょうか」と仮定形でぼかすところです。 勿論単刀直入な表現で事足りるわけですが、そこを柔らかく言い換えることによって、人間関係もなめらかにいくことでしょう。 そこへいくと、日本語は「なになにですが・・・」と語尾を曖昧にします。 そこでそのことをネビュラスだと批判する人もありますが、文明の度が高い証拠だと思うのです。 イギリス人は自分の言うことに絶対自信がある場合、よく「私が間違っているかもしれないが」と付け加えます。 これもシビライズドな文明社会の言い回しでしょう。 (06/09/28)

Friday, September 15, 2006

モントリオールの乱射事件 (2006/09/14)

「モントリオールの乱射事件」

イノさんへ

前立腺肥大の手術をしてから今日でちょうど一ヵ月。 そこで医者の所に出向いてその後のチェックをしてもらったのですが、幸い前立腺癌の兆候はなかったということで、後6ヶ月して再び診てもらうことになりました。 今月は、そのほか、特別な眼鏡が使えないものか、アイケアセンターで相談し、また月末には、緑内障の専門医のアポイントメントも控えているので、診療所通いが続きます。

僅か5才の違いながら、イノさんのダイナミックな健康とは大きな差があるので、考えさせられます。 新老人の仲間入りをしてから、急速にあちこちの故障が出ています。

昨日は、モントリオールのドーソンカレッジで乱射事件があり、18才の女子学生が死亡したほか、20人が重傷を負って、カナダ中に衝撃が走りました。 このドーソンカレッジにはうちの息子と娘も通ったことがあり、なじみの深い学校ですから他人事ではありません。 

カナダでは、普通、高校までの12年間の勉強がすむと4年制の大学に進学するのですが、ケベックではちょっと違っていて、高校から一応短大に進みます。 そこで2~3年勉強して、さらに3年制の大学教育が待っています。 制度的には日本の昔の旧制高校か専門学校に相当するでしょうか。 といっても昔の旧制高校のような天下御免の特殊なエリート文化は存在しません。  

ドーソンカレッジは、モントリオールの繁華街と住宅街の境にあって、学生数は1万近く。 ケベック州では最も大きい英語系のジュニアー・カレッジです。 

ケベックでは、他の州から来た学生は、フランス語系の学校で学ぶのが建前ですが、特に我々のような移民は、英語系の公立の学校に入ることは許されないのがきまりです。 うちの子供達は、バンクーバーからモントリオールに移った時は既に高校に入っていたので、どうにか抜け穴をくぐり抜け、英語系の学校に編入することができたのは、ラッキーでした。 いや、あるいはフランス語を習得するチャンスを失ったわけですから、不運というべきか。 よくわかりません。

モントリオールでは、17年前も、、フランス語系のモントリオール大学の工学部で女子学生射殺事件があり、14人の女性が犠牲になりました。 犯人は女性の社会進出を憎む、アンチフェミニズムに執りつかれた男で、14人を次々に殺した後、その場で自殺しました。 鉛色の冬空の凍てつくような寒い日のことでした。

その事件の生々しい記憶が消えないうちに、再びモントリオールで今度の事件が繰り返されたのですが、今日のハーパー首相は、銃砲取締りについては沈黙を守っています。 地方に地盤をもつ保守党政権は、前の自由党が採択した銃砲登録制度を無意味な無駄遣いとして非難し、今秋には廃止しようとしています。 そして「銃による犯罪には厳罰をもって対処すればよい」というのが、ハーパーの答です。 しかし昨日の乱射事件で、世論はどう流れていくでしょうか。 犯人は合法的に登録された銃を使ったわけですから。

今回の犯人はビデオゲームに熱中していたという話ですが、ビデオゲームの業界は反撥しています。 「日本を見よ。 ビデオゲームの最も発達している日本では犯罪が少ないではないか」というわけです。 とんだところで日本が引き合いに出されましたが、イノさんがかねてから心配しておられるビデオゲームの影響は、ここでも無視できませんね。 それにしても日本の徹底した銃砲取締りのあり方には、アメリカもカナダも見習ってほしいものです。

(06/09/14)

Monday, September 11, 2006

9/11 (2006/09/10)

9/11を迎えて、カナダもアメリカにならって、マスコミも特集を組んでいます。

先日、「ワールドトレードセンター」という映画をみてきました。 私には巨大なスクリーンも、ピンボケの墨色の画面でしたが、音響はよく、迫真の印象を受けました。 もっとも私には、ニューヨークの警官や消防士の英語は、判り辛かったのですが。 瀕死の状態から助け出された場面に、イエスのイメージが重なっていました。 プロデューサーやディレクターがビリーバーだったのでしょう。 メッセージが伝わってきました。

しかし、昭和20年の日本を経験した昭和一桁には、3千人ぐらいでガタガタするのには、正直なところいささか抵抗がありました。 広島、長崎の惨劇もさることながら、東京大空襲で死んだ10万人のことは、いずれもっと劇的なドラマとして再現し、人間の悪について歴史の審判を待つべきでしょう。

貴兄の目の前で火の柱となった人の悲劇をきくと、アウシュヴィッツとともに、何故神はそういうことを許したのか、判りませんが、「不可解」の一語で行き詰まってしまいます。

(06/09/10)

9/11を迎えて(2006/09/10)

Mさんへ

5年前の今日は、マンハッタンに居られたMさんには、終生拭い消すことのできない、強烈な印象を覚えた日だったでしょうね。

あの日は、バンクーバーも快晴でした。 テレビもラジオも聴かない私としては、ワールドトレードセンターの惨事は知る由もありませんでした。 外出先から帰ってきて、留守電を聴くと、妻の甥からのメッセージが入っています。 シアトルに出張の予定が、バンクーバー空港で降ろされたとのこと。 その頃から事態の全貌が判ってきました。 アメリカの全空港が閉ざされたとのこと。 それでも、飛行機の中に留まっていた乗客の大半は、本当の理由が伝えられなかったとのですね。

あの事件が、アフガニスタンへの攻撃となり、イラクに侵攻する口実をブッシュとチェイニーに与えたのですが、これも歴史の審判を受けなければなりません。 

最近、「ワールドトレードセンター」という映画を見ました。 私の目ではすべてがピンボケでしたが、よくあれだけの長篇の映画にしたものだと感心しました。 2人の警官だか消防士だかに焦点があてられていましたが、イエスのイメージも出てきました。 ビリーバーのプロデューサーとディレクターがメッセージを伝えたかったのでしょうね。

あの日のニューヨークにおけるMさんの活躍を思い出しました。

しかし、私達は、昭和20年の夏に、もっとひどいアメリカの仕打ちを経験しているのです。 あのこともいつかは人間がこしらえた悲劇として、見直されるべきでしょうね。

どうかお元気で。

Thursday, September 07, 2006

友への私信(エスペラント) (2006/09/06)

イノさんへ

超ご多忙の中を、わざわざ日本エスペラント学会まで足を運んでいただき、早速その模様を具体的にお知らせいただいたことに、いつものことながら、イノさんの果敢な実践の動きに深く感銘しました。 

先日来、esperakira としてコメントをいただいていましたが、「エスペラキラ」というのは、投書された方のペンネームだったのですね。

なお、私の拙文に誤解を招くような稚拙な表現があり、失礼いたしました。

葬式の際にエスペラントで弔辞が読まれたのは、祖父でなく、私の父の姉のみきのが死去した時のことです。 みきの伯母は、東京女子大の2回生で、新渡戸稲造の薫陶を受けました。 昭和40年頃、当時カリフォルニアに住んでいた娘夫婦を訪ねた際、癌に倒れ、帰国して、東京の病院で病没しました。 聖書に通じ、高齢になってからもドストエフスキーなどを読んでいました。 エスペラント語を終生勉強していたとは、甥の私も葬儀の席に出るまで知りませんでした。 

明治元年生まれの祖父は、和15年頃鹿児島で亡くなりましたが、祖母がクリスチャンであったにもかかわらず、生涯無宗教ではなかったかと思います。 葬儀は神道で行いました。 エスペラントのほか、カナ文字の唱道にも熱心で、死後毛筆で書かれたカナ文字論がかなり残っていました。 しかし祖父の生前、私は幼児だったので、口をきいてもらった記憶はありません。

祖母は、明治の女にしては珍しい英語使いで、留学生が祖父を訪ねてくると通訳をしていたようです。 しかしクリスチャンでありながら、病床の祖父には比較的冷たかったらしく、そういう祖母の態度をみていた私の父は、教会とはつかず離れずの姿勢をとっていました。 しかし死の直前になって洗礼を受け、クリスチャンになりました。 母も同様、死の直前、洗礼を受けました。 父は、息子の私が言うのもおかしな話ですが、世的には一介の小売店主に過ぎなかったのですが、立派な人で、多くの人に慕われていました。 私も天国に行ければ両親と再びまみえることができることを楽しみにしています。

(06/09/06)