Monday, October 31, 2005

ハロウィーン(05-10-30)

イノさんへ

明日は10月31日。 ハロウィーン、HALLOWEENです。 日が暮れると、悪魔や骸骨の衣裳をまとった子供たちが家々をまわって、「TRICK OR TREAT、ご馳走を呉れないと悪戯をするぞ」と言い、お菓子や果物を貰います。

これはどうもカナダやアメリカの風習ではないかと思うのですが、と言うのは、イギリスに暫く住んでいた間は、そういう伝統も無かったからです。

イギリスの子供達にとって似たようなお祭は、ガイフォークスでしょう。 11月5日になると、この日ばかりは、子供達も公然と道行く人にお金をねだって、集めたお金で、昔の歴史的火薬陰謀事件を記念して、人形をつくって焼くのです。 

ハロウィーンでは、子供達は無邪気に枕カバーにお菓子を集めてまわりますが、年寄りの私は、気味の悪い悪魔の装いをみると、自分も間もなくこうなるのかなとふざけ心に思うのです。

さて、私の葬式も早かれ遅かれやってきます。 死ぬのは誰も免れないのですが、タダというわけにはいきません。 葬式の費用は一体幾ら掛かるのでしょうか。 最近の相場では、7千カナダドルから1万ドルとのこと。 つまり70万から100万円ということですね。 

シンプルな松材のお棺だと11万円。 墓地が20万から30万円。 一番安い火葬でも12万円。 上等の骨壷までいれると30万円かかることもあります。 カナダやアメリカでよく行われる香油による防腐処置は5万円。 それに食事や料理。 案内の印刷費や広告代など。

人の一生で、一番お金がかかるのは住宅でしょう。 それから車。 そして葬式。 四番目が離婚かな?

カナダでも今までは埋葬が多かったのですが、最近は火葬が増えてきました。 今カナダでも火葬が50%を占めるそうです。 

ベビーブーム、団塊の世代は、音楽からファッション、食べ物まで、商業、特に小売の分野で大きな影響をもたらしていますが、ベビーブームはいずれボディーブームに変わります。 つまり葬儀社の仕事もこれからはますます繁忙を極めることになるわけです。 

しかし、「葬式に100万円もかけるのはどうも」という人達もいるでしょう。 そういう人達のためには、カナダの各都市にあるメモリアルソサエティを利用すれば、、経済的に、簡素に、送り出すことが出来ます。 私もモントリオールに居た頃は、僅かな会費を納めて入っていました。

しかし、それでも高い。 どうしても5万円であげたいという人には、まあ難しいでしょうけれども、DO IT YOUSELF なら不可能ではないということです。 つまりお棺も使わず、袋に入れて、ヨーロッパでよく行われているように、森の中に埋めて、自然に戻すということでしょうか。 市役所の許可は必要でしょうが。

いざ葬式という時のために、私もまとまったキャッシュが使えるようにと、銀行でクレジットラインを用意して貰いました。 年収の半分位だったでしょうか。 それからもう十数年になりますが、未だに利用する機会がありません。 

シゲより     (05-10-30)


 

Saturday, October 29, 2005

インタビュー(05-10-27)

イノさんへ

カナダでもオウンビジネスをスタートしたいと思っている人が300万いると聞いて、その多いことに驚きました。 これはロイヤルバンクの調査の結果ですが、カナダの人口が3000万ですから、年寄りも子供も含めて、10人に一人がいつかは独立したいと夢見ていることになります。 カナダ人がそれほど独立心の強い国民だとは思いませんでした。

勿論成功する率は少なく、カナダ統計局によれば、25%のマイオウンビジネスが1年経たないうちに姿を消し、3分の1は3年以内に淘汰されるそうです。 そして10年後も生き残っているのは20%とのこと。 こういう傾向は、カナダに限らず、世界中のビジネスでも共通して見られることでしょう。

バンクーバーに、JIM PATTISON GROUPというコングロマリットがありますが、その総帥のパタソン氏は、BCのみならず、北米でもトップクラスのビジネスリーダーとみなされています。 小柄で、声もハスキーなテノール。 クリスチャンとしても有名ですが、気さくな人のようです。 哲郎もラジオの仕事でインタビューさせてもらったことがあるそうですが、嘴の黄色い青二才に対しても礼儀正しく丁寧。 だが気にいらない質問には「ネックスト クェスチョン」と話題の転換を促す BLUNT さもあって、冷徹なビジネリーダーの片鱗を覗かせていたそうです。

自動車のディーラーから放送局まで様々なビジネスを経営しているのですが、最初の出だしは、映画館でポップコーンを売ったこと。 アルバイトで中古車市場に立ち、セールスマン達が昼食に出かけている間に、代わって車を売ったのがサクセスストーリーの始まりと言われています。

業種の異なる多数の企業を統率していくのは、やはり天才的な手腕でしょうが、そのグループには多彩な人材が城を守っていることでしょう。 失脚したBC州首相のクラーク氏も、パタソン氏に拾われて、看板製作の会社を任されています。

そのパタソン氏が人を雇うためのインタビューをする際には、机をはさんで向かい合うことはせず、横に坐って、インフォーマルな雰囲気の中で、「どこで生まれたの? 育ったのは? 家族は? 兄弟姉妹は? 学校までどのくらいの距離だった? 何を勉強したの?」と、身近な話題から入っていって、十代の頃の願望や生き方も探り出し、人柄とやる気を見極めることにしているそうです。 もっとも、パタソン氏との面接に漕ぎつけた人なら、履歴書や資格も他の人がチェック済みで、能力には問題無いでしょうから、会社にとってプラスとなる協調性やチームスピリットを持っているかどうか、秀吉の様な洞察力を持つパタソン氏の面接のポイントになるのでしょう。 

BBCでも、半年に一回、平職員とその直接の上司のさらに上にいる、二段階高いポストのボス、つまりボスのボスと、一対一で自由に話し合うのが慣わしになっていましたが、直接の上司が本人について書いたレポートを先ず読んで聞かせるのです。 パタソン氏の手法を聞いて、その辺のことを思い出しました。

シゲより















Thursday, October 27, 2005

日記がわり(05-10-26)

イノさんへ

今日は私の誕生日でした。 74歳になったのですが、年を取ると、早く老人を気取ってみたいので、四捨五入ではありませんが、誕生の半年前から、年齢を繰り上げて、メッキをつけています。

誕生日にかこつけてのご馳走は、2人の息子が、勤務の都合もあって、それぞれ自分達に都合の良い日に、事前と事後に分けて、考えてくれますので、当日の今日は、水曜日とあって、ご馳走はお預けでした。

朝食だけでもシルビアホテルに行こうかとも思ったのですが、あそこのベーコンアンドエッグスはは卵二つだけ。 せめて年に一回ぐらいは、卵三つの朝食を注文することにし、それでは自宅のキッチンテーブルでということになりました。 卵はコレステロールが高いのですが、最近はコレステロールの低い、ボーンスリーというブランドの卵が、セーフウェイで買えますので、チップも税金もかからない朝食を、陽光を浴びながら食べました。

それから鍼の治療に行ったのですが、Doctor of Chinese Traditional Medicine の先生は、首筋の上の方に鍼を入れてグルグルと回します。 効くのか効かないのか。 それは、その日のお天気と、時間と、身体の調子で、異なるようです。 たとえば、初日は、気のせいか、緑がみずみずしく見えたような気がしたのですが、3週間目の今日は、また一歩前進二歩後退のような感じです。  実験の心算で、当てにしないで、もう少し続けてみます。

治療代は、1回30分で、35カナダドル。 最近は、カナダドルも殆ど百円ですから、3千5百円ということになりますか。 今のところ週3日通っています。

最近のバースデーカードは、電子メールで貰うことが多くなりました。 その方が受け取る方としても気楽です。 モントリオールと太平洋岸の時差は3時間ですが、モントリオールとサンフランシスコを結んで、娘達が、バンクーバーにコンファレンスコールを架けてきました。

近頃は、電話料金も安くなり、一ヶ月40カナダドル払えば、カナダ~アメリカに、何時いくら架けても、追加料金は一切無しという仕組みになっていますので、長距離電話も料金を気にしないですむようになりました。 それに娘達の電話は、コンファレンスコールを至極簡単に利用出来るようになっているらしく、普段から、3ヶ所を結んで、気軽にファミリーコンファレンスを行っています。 しかし、私はそういう簡単な利便にも縁がなく、また新たな文明の恩恵に預かりたいという意欲も無くなっているので、こちらからは架けません。

  この年になって「ハッピーバースデー」と歌われても、半ば困惑するだけで、アンビションも食欲も無くなってしまったのは、あまり自慢できることではありせんね。 しかし、目の前のご馳走がよく見えないし、美味い物を探してレストラン探訪という意欲も衰えたとはいうものの、キャパシティだけは昔の通り。 高校のバスケットボールの選手なみでして、カレッジでアメリカンフットボールのキャプテンをしていた婿よりも、量だけは沢山食べたいのですから、我ながら浅ましいなと思います。

シゲより    (05-10-26)

新聞配達 (05-10-25)

イノさんへ

新聞の購読者が減っているというのは、日本だけの現象ではないかもしれません。 ニューヨークタイムスもワシントンポストも、もともと日本の読売とか朝日とかに比べれば、かなり購読者の規模は小さいと思うのですが、あれだけの人材をよく抱えていけるものだと、不思議に思います。

30年前カナダにやってきて、子供が新聞配達を始めた時、場所はバンクーバー郊外のコクィットラムやサレーでしたが、新聞を取る家庭の少ないことに驚きました。 しかも一軒一軒の距離が長いのです。 子供が走って配達してまわる後から親が車で追って見届けるのですが、小さい子供の新聞配達は、往々親子のジョイントベンチャーになっていました。

そして集金も自分で行うのですが、これが難物でして、一家の責任者がなかなか在宅しない。また居ても払ってくれなかったりして、何度も出直すのです。 集金の苦労に比べれば、新聞を配達するだけの仕事は単純で、健康にいいのですが、時たま「夕刊が届かない」と言って電話をかけてくるお得意がいます。 そこで近くのグローサリー・ストアに行って、新聞を買って夜また届けるのです。

この集金の手間がなければ、半分小遣い稼ぎを兼ねた運動、半分遊びで終わってしまうかもしれません。 否応なく責任を背負わされることから、親としても、可哀想に思っても、心を鬼にして、集金に行かせるのでしょう。

前にもお伝えしたと思いますが、羽仁もと子は、聖書と新聞しか読まなかったそうですね。 そして、婦人之友を出し、自由学園をこしらえたのですが、彼女が戦前書いた文章は「羽仁もとこ著作集」として、絶えることのないロングセラーになっています。 その中の「家事家計篇」の教えや知恵は、今読んでも通用する、新鮮なアイディアと指針にあふれていると思います。 うちにも古い本が一冊ありますが、これは東京からロンドン、サレー、モントリオール、バンクーバーと、我々と共に旅して、今でも本棚に並んでいるのですが、今度引っ越すにあたり、生活の改革を試みなければならないので、そのうちまた本を広げてみようかと思っています。

先ほども申し上げましたように、この人が、聖書と新聞しか読まなかったということは、示唆に富む生き方だったように思えます。

私も目を悪くして最も痛いのは、新聞を読めなくなったことです。 私は、株価や会社の動向には興味がありませんが、ウォールストリートジャーナルは、毎日3本の面白いストーリーを一面に出し、その続きをページの中の方で読めるようになっています。 プロの文筆家の間でも文章が良いという定評で、私にでも辞書なしでほとんど読めるほどの読みやすさです。 しかもテーマが森羅万象をとらえて、名ジャーナリストのリズミカルな筆致で書かれているので、どれをとっても、興味深い話を仲間やサークルで披露することができます。 リタイアの身になってから、それが利用できなくなったのは皮肉なことです。

シゲより

Thursday, October 20, 2005

バンクーバーの犯罪と警察 (05-10-20)

「バンクーバーはどこよりも暮らしやすい所だと言われているが、地理的環境もいいし、気候も良い代わりに、犯罪も多いそうじゃないか」

「まったくそうなんだね、統計によれば。 カナダで一番犯罪の多い都市はウィニペッグだが、バンクーバーは二番目というかんばしくないレッテルを貼られている」

「何故だろう」

「犯罪のルーツは麻薬だ。 バンクーバーもほかの大都市と同じような犯罪を数多くかかえているが、ここの特徴は何と言ってもマリファナなどの麻薬だね。 銀行強盗に、『何故銀行を狙うのか』と訊けば、『金があるからだ』と答えるだろう。 それと同じで、バンクーバーには、麻薬がふんだんにある。 だから全国から麻薬患者が惹き付けられてやってくる」

「住みやすい所に人が集まるという点ではカナダのロスアンゼルスだね。 気候もいいし、暮らし易い所だからな」

「しかし麻薬患者も金が要る。 アル中も多い。 だから窃盗や強盗などの犯罪が増えるのも当たり前だ」

「その対策に効果的な手立ては何だろう。 やはり警察の増強かな。 でもバンクーバーは、市民と警察官の数の割合が多いのだろう?」

「それは数字の上ではそうだが、郊外も含めるとバンクーバー全域の人口は200万。 その中でバンクーバー市の人口は50万だ。 それを単純に警官の数で割れば、たしかに大抵の都市よりはよく見えるわけだが、50万というのは、都心部のバンクーバー市に住む人の数。 犯罪の多発する地域は44平方マイルだ。 日中は郊外から通勤してくる人が多いし、夜は夜でナイターやナイトクラブを始め、イベントが盛んだから人が集まってくる。 だから実質100万というところじゃないか。 そうすると、警官対市民の割合も変わってくる。 エドモントンやカルガリーのように、郊外も含めて一つの市になっている所とはちょっと事情が違う」

「モントリオールも、都心部に集まる人の数と、実際にそこに住む人の数とでは開きがあるから、バンクーバーと似たような問題を抱えているわけだな」

「バンクーバー市の警察も、プロフェッショナルな警官としての質は良好だし、検挙率も高いのだが、日夜時間と場所によって膨らみ方が違う市街地を対象に、そこで起こる犯罪を全部ひっくるめて対応するには手薄な恰好だ」

「だから市の警察長官としては、犯罪都市第二位の汚名をそそぐためには、警官の数をもっと増やしたいと望んでいるのだが、バンクーバー市長も同じ意見だ。 それに、バンクーバーはカナダの中でも、デモンストレーションや抗議運動の最も活発な所だからだ。 そうした市民の抗議デモに対しても警察は責任がある。 民主義を尊重しつつ、法の秩序を守らなければならない立場だ」

「それと同時に、犯罪を摘発する前に、犯罪防止に努めたいと、警察のトップは言っている。 子供が小さいうちから学校教育を通じて防犯活動を積極的にすることが、警察と政府の責任だと強調するのだが、犯罪が低下するまでには暫く様子をみる必要がありそうだな」

(05-10-20)

Monday, October 17, 2005

阿部さんへの返事(05-10-15)

[シゲから阿部さんへの返事]

2通も続けてお便りをいただき、感謝です。

レマン湖というと、思い出すことがあります。 学生時代、知人のお宅でお目にかかったのが、フランス語のお上手なご婦人でした。 たしか戦前ジュネーブの国際労働機関で活躍された有名な人物の奥様だと思います。 有名な方なのにその名前を失念したのですが、鮎沢さんという名前だったかな? そのご夫婦に男の子が生まれたのですね。 そこでレマン湖の名前をとって「玲満」と名付けられたそうです。 ところが日本の戸籍には、間違って「珍満」と記載されてしまったそうです。 「中華料理屋みたいで・・・」と言っておられましたが、ご本人も両親もさぞかし心外だったことでしょう。 そのご子息は、一生「珍満」という名を担って生きなければならないのですから。 「レマン」とはいい響きの名前ですから、ほかにも同じような名前をつけた在スイス贔屓の日本人がいたかもしれません。

日本の役所は手前の間違いを認めませんからね。 小さいことですが、家内の誕生日も、結婚して新戸籍を作った時に、2日ずれてしまいました。 本当の誕生日は、シェークスピアと同じ誕生日だったのですが、その2日後が戸籍上の誕生日というわけで、今は二つの誕生日を持っています。

前にもお話ししたかもしれませんが、知り合いのイギリス人は、「スイス人とスウェーデン人は信用する気になれない。 まだドイツ人の方がましだ」と言っていました。

ロンドンで、日本語を勉強していた女性で、マルクスさんという人がいました。 三つもフルタイムの仕事をかかえ、その上日本語の上級クラスで勉強をしていたのですから、すごいオールドミスでした。 イギリス人の友達は、「ドイツ人だからよ」とあきれながら笑っていました。 

そのマルクスさんが、イギリス人のことを、いつも悪く言うのです。 そんなにイギリス人が気に入らないのなら、ドイツに帰ったらいいのにと思ったのですが、「イギリス人は、レージーで、ダーティ。 でも『カインド』だから」と、BUT を付け加えます。 たしかにイギリスには親切な人が多かったです。 「親切」ということは、「勤勉」や「清潔」よりも大事なんですね。 

私は省みて、不親切で意地悪なところがあります。 「だから、今の不遇は仕方がないんだよ」と自分に言い聞かせるのですが、私にとって「親切」というのは、努めて自覚しなければならない課題です。

シゲより      (05-10-15)

Sunday, October 16, 2005

誕生日 (05-10-16)

イノさんへ

10月10日がお誕生日でしたか。 私も10月が誕生月です。 もっとも羊年ですが。 私の小学校からの友達に、同年同月同日に生まれた男がいます。 もっとも、彼はベルリンで生まれ、私は鹿児島で生まれたのですから、時間はかなりずれていると思うのですが、生年月日に基づく占いがもし当たるのであれば、2人の運命や境遇に共通点がありそうなものです。 しかし実際は、性格も能力もかなり差がありました。 彼は私と違って、頭脳明晰、運動神経抜群でした、混血児のプラスがもたらした天与の素質だったのでしょうか。

お父さんは大学教授。 御祖父さんは鹿児島市の初代市長。 お母さんはドイツのご出身。 父君がドイツ留学時代に結婚され、1931年の10月に1人息子が彼の地で生まれたというわけです。 そして親子3人で戦時色の濃い鹿児島に帰郷。 軍国主義と封建色に染まる薩摩隼人の町で育ったのですが、お母様は、終生ドイツに帰ることなく、戦災のさなかも焼夷弾の降る中で踏みとどまれ、戦後の艱難辛苦もつぶさに嘗められたようです。 

彼はいわゆるアイノコだったわけですが、優秀な資質を持ち合わせていたからでしょう。 戦時中でも、まわりから一目置かれる存在でした。 毛色が変わっているからと言って、いじめらるようなことは毛頭なく、むしろお山の大将的存在で通っていました。

彼の結婚式は本郷の学士会館で行われましたが、金髪の母君は、裾模様の和服に胸高く帯を締められ、満面の笑みを浮かべて人々の挨拶を受けておられました。 その胸中はいかばかりかと、戦中戦後のご苦労を知るだけに、万感迫る感慨を想像したことでした。

先日電話で彼に母君のご様子を訊ねたところ、90歳を越えるお年で、今もご健在とのこと。 シニアの集まりに出かけるのを楽しんでおられるとのことで、嬉しく思いました。

彼もドイツ語は、鹿児島弁、標準語と同様、呼吸をするが如く自由なのですが、遂に海外に出たという話は聞いておりません。 一方私は、英語やフランス語から逃れるために東洋史を選択し、LOAFING を決め込んだのですが、天運ままならず、生涯の半分を海外で過ごすことになりました。 

イノさんの生涯も波乱に満ちた一路を邁進してこられたわけですが、それだけに今送っていただいているエッセー集は、真実の旅路を記録されているのですから、その集大成をさらにひろめることは出来ないものかと、思案するのです。

シゲより   (05-10-15)