Saturday, July 29, 2006

花火(3006/07/27)

今夜は、バンクーバーの花火。 アパートから一歩踏み出すと、目の前は海ですが、ちょうど真ん前のあたりに、数日前から、ミニ航空母艦のような長い舞台が浮かんでいます。 今夜10時になると、このステージから花火が次々に放たれ、30分間続きます。

先ほど午後4時半頃街頭に出てみたら、毛布と弁当を抱えた家族連れが、もう海岸に向かって歩いていました。 この辺一帯は、7時から11時半まで、自動車も通行禁止になり、歩行者で埋まります。

この花火は2週間に4回行われるのですが、太陽がまだ中天高く輝いている頃から人が詰めかけ始め、子供達は夜10時まで、海岸に毛布を拡げ仮眠します。

夏の花火は世界中どこでも同じ様な風景でしょうが、バンクーバーの市民達も、この時ばかりは童心にかえって、夏祭りを祝います。

バンクーバーの花火のコストは300万ドル。 そのうち花火そのもののコストは120万ドルだそうです。 ということは、交通整理やセキュリティ、多数の仮設トイレの費用などにかかるのでしょう。 

300万ドルの費用は、香港上海銀行(HSBC)が出し、後電話会社も後援に名を連ねています。

私も今まで花火を見物に出かけたことは殆んどなかったのですが、折角目の前で展開されるのですし、それに集まった遊民の賑わいにも触れてみたいので、海辺に出かけました。

この辺、今は9時ぐらいに薄暮になりますが、私は10時15分前に出かけました。 すっかり夜のとばりがおりていましたが、それでも沖合いのミニ空母のまわりには、ヨットやクルーザーが数え切れないほど泊まっているのが見えます。 

海岸には何万という人達が既に陣取っていましたが、戦略的なベンチに腰掛けているのは、日中まだ明るい時にやって来た心がけのいい人達でしょう。 オシッコの近い私にとって気になるのはトイレの問題ですが、それも多数の仮設トイレが方々に用意されています。

海に面した高級アパートには臨時の柵が設けられ、警備会社のガードらしき男性が見張っています。 公園の花や植え込みのまわりにも頑丈な金網が張りめぐらされ、花泥棒を警戒しています。 パトカーや救急車が何台も、赤や青のライトを点滅させて待機しています。

小さな子供達は、この晩に限って売り出される照明つきの玩具を手に手に振り回しながら、楽しそうに駆け回っていますが、若者の群れの間を、車椅子の人達も通り抜けています。

私の今までの花火体験といえば、遠い夜空にホワッと浮かぶ赤い傘を建物の間から見るだけ。 そして忘れた頃に「ポン」という響が流れてくるのですが、今夜はかぶり付きの場所です。

東京では、両国の川開きに、隅田川の両岸から江戸っ子が「鍵屋!」「玉屋!」と歓声をあげると聞いたのですが、屋台舟から眺めるのも風情があって風流な夕涼みでしょうね。

10時直前に秒読みが始まりました。 そして目の前のミニ空母から、スルスルと火が尾をひいて上空に飛ぶと、太鼓の皮が破れんばかりの音響で、炸裂します。 全盲の人も、このどよめきと腹にズドンと響く爆音を楽しむために、この海岸に来ているそうです。 そして機関銃のような爆発が続き、数分おきに空が赤く染まる、光と音の饗宴が繰り返されます。 

なるほどこの迫力なら遥々遠くから歩いてやってくる皆さんの気持にも納得。 その晩はイタリアがテーマでしたが、スピーカーの音楽が変わると、目の前の数人の人達がスクッと立ち上がります。 イタリアの国歌だったのかもしれません。 観客は歓声と拍手を惜しみなく送ります。 沖合いの浮き舞台の花火師には聞こえないでしょうが、私も手を叩きました。 

そして、絢爛たる夜の祭典が、エルガーの「威風堂々」の音楽とともにクライマックスに達すると、私の気分もさらに高まってきました。 時計が無くても、なるほどこれがフィナーレなのだと実感します。 そして10時半になると、夜空は再び黒く静かになり、観衆は一斉に腰を上げて帰路につき始めました。 

世界の戦乱の災禍も、この一夜だけは暫し忘れて、海岸に座り込んで、音と光のシンフォニーに酔ったことでした。 三日後は中国が主題の花火。 来週はチェコスロバキアと聞きましたが、これは二つの国。 東欧の二つの国が協力して演出するのでしょうか。 私もまた出向いて参りましょう。

(06/07/27) www.shigematsu.com

拡大する中東戦乱(3006/08/01)

イノさんへ

イスラエルとヒズボラの争いはなかなか決着がつきませんね。 あれは1967年でしたか。 六日戦争と言われた短期決戦で、イスラエルが決定的な勝利をおさめたのは。 

あの頃、アラブの大国に東西南北取り囲まれたイスラエルが、エジプトを完敗に追い込んだのは、今から30年前になりますが、今度は、パレスチニアンの一派ヒズボラに対する決定打が3週間たってもなかなか出ないようですね。

30年前の私は中東情勢に無知だったのですが、中東通の日本人によると、「あれは日本と戦前の東南アジアの一国が戦ったようなものだよ」と言われ、なるほどそんなものかと思ったことでした。

うちの教会に、以前レバノンとシリアの大使をしていた人がいるのですが、日曜の礼拝の後よくコーヒーを飲みにラウンジにやってきて私に話しかけてくれます。 六日戦争のことを持ち出すと、「あの時のナセルは張子の虎だったのですよ。 脅しをかければイスラエルが簡単に屈服すると思ったんですね。 そしてイスラエルの実力を知らなかった。 アラブ側は何回負けても構わないようなものだが、イスラエルはそうはいかない。 一度負けたらお終いだ。 だから勝負は一方的になったわけだが、今度のヒズボラは、イスラエル軍の兵士を人質にとれば、イスラエルとの交渉も自分達の思い通りになると誤算したんですね。 だからイスラエルの反撃がこれほど強硬になるとは思っていなかったのでしょう。 それにヒズボラにはイランとシリアから何万発のミサイルや武器が供給されている。 そして、民家や国連の場所にミサイルの発射台を配置し、反撃している」とみていました。 とすると、昔の東南アジアの旧植民地を相手の戦争という喩えは成り立たなくなったのですね。

それにしても、イスラエルに危機が訪れると、世界中のユダヤ人が、イスラエルの存亡のために駆けつけるようですね。 1973年、私がまだロンドンにいた頃、また中東で戦乱が勃発したのですが、職場にいた女性で、父親が金持ちだというのが自慢のユダヤ人の姿が一時見えなくなりました。 そして戦争が一応終息すると、その女性がまた職場に戻ってきました。 すっかり日焼けして真っ黒になっていました。 聞くと、イスラエルの野戦病院に行っていたとのこと。 イギリスで生まれ育っても、ユダヤ系の人なら皆二重国籍を持っているということをその時初めて知りました。

それに引き換え、レバノンに戻っていたレバノン系カナダ人は皆二重国籍ですが、戦争が始まると、我勝ちにレバノンを脱出しようとする。 それも親兄弟を残したまま。 どうしてだろうと訊ねると、その知人は、「レバノンではかなりの人がクリスチャン。 だから脱出するのは、クリスチャンでしょう」と推測していました。 

つまり、アラブの社会で生きるクリスチャンは、祖国に対する愛国心よりも、自分の宗教への帰属感が先に立つということなのでしょうか。 二重国籍を保持しながら、普段カナダに住まないで、別な国で生活するということは、カナダに税金を納めていないということ。 それでもカナダ政府は、全額国費負担で救出しましたが、他の国のように一部を引揚者に負担させてもよかったのではないかという疑問の声が国民の一部から出ています。 移民の国が抱える難しい問題です。

(06/08/01)

Tuesday, July 25, 2006

レバノン系カナダ人(2006/07/24)

イノさんへ

此の頃カナダでは、ニュースというと、殆んどがレバノンの戦乱のことです。  それもレバノンから脱出しようとするレバノン系カナダ人の話題です。 

レバノンは小さい国とはいえ、地中海の宝石と言われているそうで、ベイルートに住んで居たアロハさんによると、「山の上ではスキーも出来て、中東の神戸といった所だよ」ということでした。

そのレバノンに帰っている二重国籍のレバノン系カナダ人は5万人もいるというので、カナダに留まっているレバノン系カナダ人も含めれば、相当な数になるものと思われます。 

数年前のカナダ政府の統計をみると、カナダに住む全アラブ系の人は20万。 ユダヤ人も20万。 その中でレバノン人の占める割合はかなり大きいのだろうと思います。 日系人の数字は記載されていませんでした。 

「レバシリ商人」と言われるくらい、レバノンとシリアの人は、ビジネスの才覚に富んでいるのでしょうが、中東の「エコノミックアニマル」といったところでしょうかね。 その人達が、一旦カナダ国籍を取得すると、再びレバノンに戻り、5万人のうちの半分はレバノンの永住者だそうですから、地中海の香港人といった存在ではないかと思います。

香港が中国に返還される直前、香港人が大挙してカナダにやってきて、カナダ国籍をとり、一旦二重国籍の身分が確立されると、また香港に戻って、ビジネスを続けています。 

日本からカナダに戦後やってきた移民も、日本の景気がよくなると、日本に帰国し、そのまま居ついているようです。

しかし日本政府は、二重国籍を認めていません。 それも最近、出先機関の領事館の窓口で締め付けを厳しくしているようで、証明書の発行にも、「二重国籍ではありません」と誓約書を書かせるなど、新しい自家製のルールをつくって圧力をかけていると聞きました。 ペルーの大統領だったフジモリさんあたりになると、日本政府のお偉方も、そこは融通無碍の解釈が可能になるのでしょうが、細かい規定を金科玉条とする領事館の窓口と地頭には勝てないのでしょう。 松平定信は「政治は座敷を丸く掃くがごとく」と諭し、ケネディも「移民政策は柔軟に」と教えたのですが、9/11 以来、国境をめぐる杓子定規が厳しくなってきましたね。 領事館の職員も知人には親切ですが、ワーキングホリデーの若い人達の評判はまた別。 田中真紀子外相になってから在外公館も愛想がよくなったと聞いたのですが、もしそれが事実なら、田中外相も良い遺産を残してくれたようですね。

かつては、アメリカも二重国籍は認めていなかったのですが、最近は緩和され、アメリカ人でカナダ国籍をもつ人達も増えてきました。

日本でも、民主党の一部議員が、二重国籍を認めることにしようという動きがあったようですが、どうなったのでしょう。 

いずれにせよ、小国レバノンから来たカナダ人の規模には驚きました。 それでもカナダよりレバノンに愛着があり、住みよいと思ったから故国に帰ったのでしょうが、戦乱が始まると、カナダの旅券を取り出し、カナダ国民として権利を主張します。 そしてカナダ政府の救済対策が手ぬるいと、声高に批判し、カナダへの帰国を急いでいます。

多くのカナダ人にとって二重国籍は当たり前のことですが、愛国心に基づく、真の帰属すべき母国故国はどちらかと訊かれたら、複雑な気持で戸惑う人も少なからずいることでしょう。 時と場所に応じて。別な旅券を呈示して、便宜国籍の権利を行使する。 これも移民の国カナダのかかえる、こみいった利害関係、心理的ディレンマの一つの側面でしょう。。

(06/07/24)

Sunday, July 23, 2006

豪雨の影響はスゴイですね(2--6/07/22)

P大兄

貴兄にメールしようしようと思っていながら、閑人ほど動きがにぶい通例の通り、ご無沙汰し、貴兄にまた先を越されてしまいました。 独り恥じ入っているところです。

長野往復13時間のドライブは凄かったですね。 まあ途中で立ち往生することなく自宅まで帰りついたのは何よりでした。

実は、貴兄のメールに驚いた直後、教会の友達からのメールが転送されてきて、それがまた諏訪の土砂崩れの知らせだったのです。 この若い日本人のカップルは、日本でのビジネスのキャリアを打ち切り、、当地へ留学中。 神学大学院で勉強しているのですが、今は夏休み。 そこで奥さんの長野の実家に帰省したのですが、これが諏訪の近く。 実家も土砂崩れにあい、若い夫婦が預けてあった家財も泥の中。 保険も天災では填補しないでしょうし、泣くに泣けない事情のようです。

ところが、これは「天災」に非ずして「人災」ではないか?  実は先週話題の映画「AN INCONVENIENT TRUTH」をみにいったのですが、この映画の中で、アル・ゴアが「これから豪雨が地球上で頻発する」と警告しているのです。 この映画は日本でも上映中と思うのですが、日本語のタイトルは何と言うのでしょうか。

映画を製作している間にルイジアナを襲ったのが「カタリーナ」。 ところがニューオーリンズで多数の死者が出ているのに、ブッシュは関心を払おうとしない。 そこで側近がニュースを編集して災害の実態を見せたところ、ようやく4日後に腰を上げました。 そして能力も経験もない友人を災害救済対策のトップに起用。 閣僚クラスの地位だったようですが、これがとんだたわけ者。 議会でも問題になって一応辞めたものの、人災は広がるばかり。

ブッシュも、アル・ゴアを斥けて大統領になる前は、環境問題も公約の一つに挙げていたようですが、大統領になってからは、「京都議定書はアメリカにとってラウジー・ディール」と決め付け、環境問題の責任者に据えたのが石油業界の代弁者。 これでは鶏小屋に狼を送りこんだようなもの。 言うに事欠いて「虱のような『京都』」と言い放っては、泥水の中で死んでいった黒人達も浮かばれません。

このブッシュに同調するのが豪州のハワード首相。 カナダは前政権が「京都」に調印したのですが、この2月保守党政権に代わると一転して「反京都」の姿勢。 産油地出身の若い女性を環境相に据え、環境政策は後退しています。

日本はどうでしょうか。 小池百合子という関学中退カイロ大卒の議員が当選回数を重ねて環境相をつとめているそうですが、どんな人かそれ以上のバックグラウンドは知りません。 イラクで日本人の男女が人質になった時、パウエル国務長官が若い日本人の献身的な行動を讃えたのに対し、ニューヨークタイムズによると、コイケユリコは人質を責める急先鋒だったと報じていました。 しかし小泉首相は改造後も彼女を閣内に留めたところをみると小泉首相は力量を買っているのでしょうね。。

貴兄には、小学校から大学まで、多数の同窓の友がまわりに居て、一発号令をかければすぐさま集まるのですから良いですね。 こちらの同窓会は、皆さん世代が若く、肩書きは現地法人の社長とか頭取といったエリート集団。 世捨て人には縁がありません。 私も一回だけトロントの同窓会に出てみましたが、校歌に代わる応援歌を歌う時私の歌詞はあやふやでした。 愛校心も愛国心もあやふやです。 だからと言って、カナダに愛着心があるかというと、そこはやはり「日本人」の血が燃えます。

湘南の風はよそより涼しいでしょう。 どうかお元気で。

Saturday, July 08, 2006

船旅のすすめ(2006/07/08)

Q大兄、

コンピューターの修理に時間が掛かるとうかがいショックです。 修理がそんなに複雑ということは、高級機ということを意味するのでしょうが、自動車なら修理期間中代替車を出してくれるガレージもあるのに、コンピューターではそうもいかないのでしょうね。 

それにしても、貴兄が多忙を極めて、普通の人なら耐えられないような厳しい環境におかれながらも、手書きでお便りをくださることにいたく恐縮、かつ感激しております。

東ヨーロッパの旅行がペンディングとのこと。 それほど大変な状況のかと、驚いているところです。

こういう非常時を乗り切るには、日本だと、「温泉にでも行ってみようか」ということになるのでしょうが、こちらには温泉がほとんどありませんので、やはり小旅行、それもできたらクルーズということになりましょうか。 

海国日本は文字通り海に囲まれているわけですから、江戸の昔から船旅は盛んな筈と思うのですが、5万トンぐらいの大型船によるクルーズは利用されているのでしょうか。 

奥様と湯治に行かれるのも一案ですが、私だったら、温泉地までの移動が心理的な負担となってブレーキを覚えます。 その点クルーズは、港までタクシーで行って、一たび船に乗り込んでしまえば、その後は荷物に手をかける必要もなし、イージーなライフスタイルを好む年輩者には向いていると考えます。

それも貴兄ご夫妻のような、フレキシブルな時間を使える方には、一泊二日のショートコースでなく、一週間かそれ以上の長旅がリラックスできるのではないかと愚考するのです。

バンクーバーからも、アラスカやパナマ方面に向けて、毎日のように夕方クルーズシップが出航しています。 今はすっかり庶民のホリデーとして定着しているクルーズですが、私は乗ったことがありません。 北米大陸の端からも飛行機で飛んできて、クルーズを楽しんで、また大西洋岸まで帰っていく人達もいるのですが、地元にいる私はアングリと指をくわえて見ているだけです。 

私達が30年前イギリスからカナダまで船で来た時は、BBCが払ってくれたので幾らかかったか知りませんが、一ヶ月の船旅のコストは、当時のロンドン・東京間のエコノミーより安かったと思います。 船室は下の方の海面に近い船側でしたが、それでも船室は寝るだけのもの。 日中は、オープンクラスですから、一等船客と同じ施設と空間が使えました。 万が一船に乗るような機会があったら、船室だけは最も安いキャビンに限ると考えます。

奥様の健康にも良いのではないかと思いつき、一筆走らせました。

(06/07/08)

Thursday, July 06, 2006

船も運命共同体(2006/07/06)

P大兄

奥様が逝かれて一ヶ月と一週間。 お取り込みの間はご親戚や友人の往来もせわしかったでしょうが、今は人の波も潮のように引いて、幾分静かになられたでしょうか。

私は30年以上前、イギリスからカナダに渡る時、船で一ヶ月旅したのですが、船中でいつも同じ食卓を囲んだ一人の老紳士がいました。 背丈は私と同じくらい。 その時は私よりかなり年長者だと思ったのですが、今考えれば、現在の我々よりも若かったのかもしれません。 奥さんを亡くされての独り旅でしたが、1500人の乗客の中には、そういうイギリス人の鰥夫も結構居ました。

或る晩食事の後で、部屋に招じられたのですが、船室のドアを開けながら、「妻に会ってください」と言われます。 部屋には、奥さんの大きな額入りの写真がありました。 「私が部屋に帰ってくると、ああして、いつも笑顔で迎えてくれるのですよ」と言います。 私は感動の胸を抑えることができませんでした。

その船は、3ヵ月かかって世界を一周するクルーズでしたが、その人は奥さんと死に別れてから、毎年クルーズに独りで参加していると言っていました。 乗客の殆んどは高年のイギリス人の男女でしたが、独身の人が多く、皆さん似たような運命で同じ船に乗り合わせたのかもしれません。 30年前の初老のイギリス人というと、特に男性は、渋い魅力の人が多かったように思うのですが、今はどうでしょうか。 私達と初めて出会っても「外国人」という表情はついぞ見せませんでした。

私も、船の旅、鉄道の旅、運河の旅と振り返ってみると、途中の観光地とか食事よりも、行きずりの人達との触れ合いがいつまでも記憶に蘇ってくるように思います。

このバンクーバーからも、アラスカやハワイ、パナマ方面に向けて、クルース船がいつも夕方出航しています。 往復一週間ぐらいのスケジュールのようですが、遠くから飛行機で飛んできて乗り込む観光客が多く、暫し憂き世を離れる楽しみに人気があります。 私達はまだ乗ったことがありません。

(06/07/06)

Tuesday, July 04, 2006

イノさんへ:時代と会社の評価(06/07/04)

「イノさんへの私信: 時代と評価の移り変わり」

新卒の人達が憧れるトップ経営者についてのお話に、時の流れを感じました。 

私が学校を出たのは昭和31年でしたが、あの頃人気があったのは東レでした。 私は文科でしたから就職には関心がなかったのですが、レーヨンの企業がどうしてナンバーワンなのか、詮索もしないままでした。 しかし優秀な若者が当時同社に集まったものです。 あれから50年。 あの俊秀達はどうなったか。 彼らが支えた日本一の企業はどう発展していったのか。 今になってみると話を少し聞いてみたい気がします。

その頃松下と言えば、新卒でも望みの高い人は同社を第二志望にランクし、関西の人でも、同社製品に対する評価は今ひとつだったと思います。 まだ同社が負債を背負っていたからでしょうか。 あの頃、既に松下さんは、電化製品を水道から流れ出る水のように流通させたいという夢を語っていましたが、その通りになりましたね。

その頃大阪でロータリーの全国大会が開かれ、私の父も出席したのですが、ホスト役とおぼしき腰の低い老人がいたので、「この度はお役目ご苦労様でございます」とねぎらったところ、そのロータリアンも父の胸の名札をみて、「これはこれは鹿児島からお越しでしたか」と挨拶を返されます。 そこでその方の胸を改めてみたら、「松下幸之助」とあったと父が語っていました。

それから5年位経った頃かと思いますが、タイムの表紙に松下幸之助の、やや愁いを帯びた表情の画が出ました。 私の知る限り、日本人でタイムの表紙になったのは松下さんが初めてだったように思いますが、当時の日本の若者よりもタイムの編集者の方が、松下さんのたぐい稀なリーダーシップを見極めていたのですね。

今は、レバノン系のブラジル人で、フランスのキャップをかぶるゴーンさんが、若者の評価するトップ経営者ですか。 この人については何も知らないのですが、文化も言語も違う環境で、古い伝統の日産自動車を立て直したのですから、天才的頭脳と実行力の持主でしょう。 しかし、フランスが外国のバックグラウンドを持つ人物を日本に送り込んで成功したというのも面白いですね。 イノさんがフランスのサッカーチームは黒人選手を主体としていたと指摘されていましたが、「国境なき医師団」が第三世界で活躍しているそうですね。 国境なき経営者や運動選手も、これからは主役を演じる時代がやってきたようですね。

日本の「国際化」が取り上げられてからもう20年以上になりましょうか。 人材の国際化は進んでいますか。 バブルの興奮がまだ冷めやらぬ頃、日本の会社や銀行から派遣されてアメリカのビジネススクールに学んだ若きエリート達が、「もはやアメリカから学ぶべきものは何も無い。 日本が保有するアメリカの公社債を引揚げたらアメリカは忽ちお手上げだ」と発言したことがビジネスウィークに伝えられていました。 彼らが日本の復興に特に寄与したわけでもないのに、若い世代特有の傲りだったのでしょうか。 最近トヨタのトップが「トヨタの社員の驕りが将来心配だ」と発言していたと聞き、イノさんと同じ警世の憂いを共有されているように感じました。 

もう30年以上前になりますが、ある日本の作家が「ヨーロッパに居る日本人は蠅のようなものだ」と発言したことがありました。 その頃私もヨーロッパに居て、その文明に貢献することなく、ただ熟した果実に食らいつく蠅の一匹だったので、忸怩たるものを覚えました。 それでまだ新参者を迎えてくれるカナダに移ってきたような次第です。
 
次は中国の若者の番がやってくるでしょうか。 時代はドンドン移り変わりますからね。    (06/07/04)

Monday, July 03, 2006

友への私信: そぞろ歩き(06/07/03)

「イノさんへ: そぞろ歩き」

文京区の閑静な通りを熟年のグループが散歩する様子がみられるとのこと。 本郷を中心とする辺りには、文学散歩を楽しめるコースが沢山あるのでしょうね。 漱石の文章の中にも、千駄木とか西片町十番地とかの地名が出てくるので、十番地とはどこにあるのかと行ってみたのですが、地図で見ると一つの町に匹敵するほどの広さだったので驚いたことがありました。 漱石とか一葉を始め、明治大正の文豪や学者が暮らしていたのでしょうが、戦災に会ったのかどうか。 そういうことを思い出しながら杖を曳いてみたいというのが私の昔からの念願だったのですが、時間の許される今は、遠く異郷の空の下。 夢は夢として憧れながら保っていくべきものなのかもしれません。 

先ほどうたた寝をしている時に、字をペン軸に刻まなければならない羽目になった夢を見ました。 その時に、記念の「念」という字がどういう筆順だったか戸惑ってしまい、自信が無くなったところで目が覚めました。 ワープロにばかり頼っていると、本当に字を忘れてしまうものですね。 イノさんのように、手書きのロングハンドで書く意義は大きいと痛感しました。 英語人の著作家や学者の中にも、パソコンはおろか、タイプライターも使わず、長い線入りのイェローパッド用紙で、著作やエッセーを書く著名人がかなり居るようです。 ピアニストが指に曲を暗譜させるように、ロングハンドで綴るうちに思考が熟してくるのでしょうか。

平成のパソコンに頼っていると、明治や大正はますます遠くなりにけりです。

東京の若い友人が「ぶらり途中下車の旅」というDVDを送ってくれるのですが、おかげで椅子にすわったまま都内や近郊のぶらり散歩を楽しむことができます。 文学散歩のような趣向ではありませんが。意外な美味しい出会いが多く、いつも若くて古い東京の良さを見直すことになります。 同じ友人から「散歩の達人」という雑誌も送ってもらっていたのですが、これにはタイムトンネルを通り抜けるような文学散歩もあり、東京生まれでもなければ東京育ちでもない田舎者でも、郷愁をそそられるものがありました。 特にその編集スタッフの面々が筆で描く筆致がピチピチと新鮮で、若い人達の語り口が魅力的でした。 この友人から恵送のビデオや雑誌をいただくようになったのは、私がまだBBCにいた頃ですから、もう何十年になるでしょうか。 それでいて、会ったのは五年前、その人の仕事の合間を縫って、三ノ輪の珈琲店でほんの三十分だけ。 私とは親子ほど年が違うのですが、そんな深くて長い付き合いを続けてくれる天然記念物的人も居るのですね。 これも短波放送のとりもつ不思議な縁です。 そうそう、その人も、博識多才ですが、パソコンやワープロには手を出さず、いつも手書きのキチンとした筆跡で便りをくれます。